博多織の歴史と移り変わりを画像つき年表で紹介!献上博多織がわかるおすすめ本も

博多織といえば、浴衣の帯などでよく目にする献上柄のデザインが有名ですね。
 
 
献上柄や変わり献上帯を銀座結びで決めたコーディネートは、着物通のおしゃれとして人気もあります。
 
 
普段着から準礼装まで幅広い場面で使える博多織は、歴史に隠された様々な魅力があります。
 
 
いつの時代も変わらない根強い人気の秘密を、歴史から紹介します。
 
 

博多織の歴史はいつから?

博多織の歴史は1235年鎌倉時代、博多で商人をしていた満田弥三右衛門と、聖一国師が中国の宋へ渡ったことが始まりといわれています。

聖一国師とは僧侶として最高の栄誉である「国師」の号を日本で最初に贈られた高僧のこと

 
 
満田弥三右衛門と、聖一国師により始まった博多織は、時代を経ると共に様々な移り代わりを見せ現代は経済産業大臣の指定を受けた

「伝統的工芸品」

になっています。
 
 
中国から持ち帰った技術と聖一国師の知識が合わさって完成した献上博多織や、献上色の秘密を歴史をたどりながら見ていきましょう。

博多織の歴史の簡単な年表

博多織の歴史を分かりやすくするために時代ごとに簡単な年表に分けて紹介したいと思います。

鎌倉時代
(1185年~1603年)
1235年、博多で商人をしていた満田弥三右衛門と承天禅寺の聖一国師が中国の宋へ渡る。
 
 
満田弥三右衛門
満田弥三右衛門
 
 
聖一国師
聖一国師
 
 
宋で6年間過ごす中、聖一国師は禅の修行に励み、弥三右衛門は下記の6つの製法を学んだと言われています。

  • 織物
  • 朱焼
  • 箔焼
  • 饂飩(うどん)
  • 饅頭(まんじゅう)
  • 麝香丸(じゃこうがん薬の一種)

 
1241年に饅頭やうどんの技法と共に、織物の技法を博多に持ち帰り人々に伝えました。
 
 
中でも織の技法を、弥三右衛門が家伝として残し、聖一国師に教えをこいながら、独鈷と華皿をオリジナルの柄として誕生させました。

独鈷
華皿

 
弥三右衛門の子孫である満田彦三郎が再び中国の広東へ渡って織物の技法を研究したのが、その250年後。

その研究により、更に改良工夫をした織物を「博多織」と地名をとって名付けたそうです。

江戸時代
(1603年~1868年)
筑前黒田藩の初代藩主の黒田長政が、博多織を徳川幕府への献上品に定め、毎年3月に帯地十筋と生絹(着尺)三疋を献上しました。
 
黒田長政
黒田長政

幕府へ献上する際には、古代中国の思想である五行説により「木・火・土・金・水」を表す5色の帯が織られ、現在は下記の5色を五色献上と呼んでいます。

青(仁)
陰陽五行説では、方角として東に配され、季節のはじめの春の色です。

穏やかさ、静けさ、平和を表わす色とされています。

赤(礼)

色名は、天に昇る太陽に由来しています。

偽りなき誠の心を意味し、幸福や富を表わす色ともされています。

黄(信)
陰陽五行説では大地の色、方角の中心です。

揺るぎ無い皇帝の威力を表わしており、他のものが使うことを許されない色でした。

紫(徳)
落ち着きと品格、神秘の色。

古くから高貴の色とされ、中国では皇帝から賜る色として尊ばれてきました。

紺(智)
力強く重厚、信用を訴える紺色。

赤みを含んだ深い青は、まじめで知的な印象を与えます。

五色献上をはじめとする博多織は、黒田藩の統制のもとに12軒の織屋にのみ生産を許され、次第に全国に知られることとなります。

機屋とは、 機を織る所、織り屋さんのこと。
明治時代
(1868年~1912年)
明治政府が藩制度を廃止したことにより、藩により保護されていた織屋は完全に解消し、実力による自由競争の時代に突入です。
 
それにより、新たに参入してきた機屋数も増えて質の悪い商品が出回るようになりました。
 
 
その対策として関係者が集まって、品質保持のために明治13年に博多織会社(現在の博多織工業組合)ができたのです。
 
 
西洋文化の浸透により、文明も開化して明治18年には博多にも、ヨーロッパからジャガード織が導入されました。
 
ジャガード機
ジャガード機
 

ジャガード機導入で、紋紙を使って図柄を自動的に織り上げられるようになり、柄の種類が大きく広がり生産性も高まっていったのです。
 
 
同じ年に、松居織工場が袋帯を発明したことで益々活気に満ちた博多織は、明治30年には240軒の博多織屋が存在していました。

大正時代
(1912年~1926年)
大正時代の博多織も人気は根強く、数々の名品を残す時代でした。

第一次世界大戦の物資不足の中でも、博多織の売り上げは衰えることがありませんでした。

昭和時代
(1926年~1989年)
昭和14年に第二次世界大戦が始まると、生活全てが一変し、博多織も生産を続けることができなくなりました。

しかし、戦争が終わり昭和30年頃より、経済復興により業者数と生産数も増加していくと同時に博多織の人気は再び復活です。
昭和写真

昭和50年のピーク時には168軒の博多織屋があり、帯は約200万本の生産数を誇り、日本の三大織物の一つともいわれる業績がうかがえますね。
 
 
昭和21年には小川善三郎が、重要無形文化財「献上博多織」の技術保持者(人間国宝)となったことで、博多織は日本を代表する文化になりました。
小川善三郎
小川善三郎
 
 
そして、昭和51年6月に博多織の帯地が経済産業大臣の指定を受け伝統工芸品に指定されました。
伝産マーク

平成時代 平成15年には先に人間国宝になった小川善三郎の息子の小川規三郎が、重要無形文化財「献上博多織」技術保持者(人間国宝)となり、二代にわたり国の認める技術者の誕生です。
小川規三郎
小川規三郎

帯地に加えて、平成23年にはきもの地と袴も伝統的工芸品に追加指定されました。
 
現在は、一番古い機屋「西村織物」さんをはじめ、10社ほどの博多織屋さんが実働しています。
 
 
帯や着物以外にも、ギフト製品やネクタイなどの小物、舞台ホールの緞帳(どんちょう)、洋服などさまざまな博多織商品が作られています。

 
 

以上のように時代順に歴史をひも解くと、満田弥三右衛門と、聖一国師がともにアイデアを出しながら作った献上柄が博多織の発展には不可欠な存在だったのかがわかりますね。
 
 
献上帯に秘められた柄や色の奥深い意味が、厳しい時代も乗り越えて、現在も人々に愛される理由のようにも感じますね。
 
 
そんな博多織の種類別の特徴や、献上柄に隠された意味などが書いている別の記事があるので紹介します。


 
 
こちらの記事は、なぜいつの時代も変わらず人気があるのかが分かる内容になっています。

又、博多織の帯を使ったコーディネートの仕方なども書いてありますので、博多織をもっと楽しみたい時におすすめです。
 
 
他にも、博多織の商品を買う時に気になる証紙のことについて書かれた下の記事もあります。


 
 
こちらの記事は、平成26年に改定された博多織の証紙の種類や、改定前の証紙の種類など紹介しています。
 
 
証紙改定後の博多織の証紙は、内容の判断が難しくなってしまったので、これから博多織の商品を購入しようと考えている場合は、知っておいた方が良い内容です。
 
 

それに加えて、博多織のことが書いてある参考書みたいなものがないかを探してみたところ、一冊の本がヒットしましたので最後に紹介します。

博多織の歴史がわかるおすすめ本

鎌倉時代から続く博多織は、2018年に777周年を迎えた現代でも様々な場面で愛用されています。

その理由を、職人の視点からとらえた一冊の本がありました。
 
 
タイトル:献上博多織の技と心
著者:小川 規三郎
出版社:白水社 
価格 :¥3,024(本体¥2,800)
 

 
 
こちらの本は、平成15年に、重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された小川 規三郎さんが書いた本です。
 
日本で初めて博多織の重要無形文化財保持者になった父親の小川善三郎さんの死から始まり、歴史や技術のことなどが書かれています。
 
 
博多織という伝統的工芸品の技法を取得し、国が認定した文化財保持者となった小川 規三郎さんでしか書けない博多織の魅力が知れそうですね。
 
 
以上が、博多織の歴史の紹介でした。

現在は、福岡県博多区にある「博多織工芸館」でも博多織の歴史に触れることができます。

こちらの館では、献上柄のもとになった仏具の独鈷や華皿が見れたり、黒田藩主が徳川幕府に献上していた「五色献上帯」の復元に近い形で再現した物も展示してあります。
 
 
他にも、時期に応じて、様々な展示会やワークショップ、講演会などが開催されているので、こまめにチェックするのもおすすめです。
 
 
着物ができあがるまでの物語にさらなる魅力を感じ、より愛着や興味がわくことも、着物好きにとったら至福のひと時ですね。