近年、非日常着になってしまった着物は、
ご存知の通り洋服が日本に入ってくる前は国民の皆が着ていた衣服です。
「いつの頃からどのようにして今の形になったのか?」
そこには、母国の民族衣装なのに日本人すら知らない長いながい歴史があります。
洋服におしゃれを求め、見た目のクオリティーばかりが注目されがちの現代ですが
私達日本人にとって
着物の歴史を知ることで
こんな民族衣装がある国に生まれたことを誇らしくも思えるようになります。
この記事にたどり着いた貴方は
和服・洋服問わず、
という、人だと思います。
そんな貴方は特に、世界一と言っても過言ではない染織技法を持つ着物の歴史に触れて 貴方自身のファッションへの視点が変わって
おしゃれに関する
それに、歴史を紐解くことで着物の紛らわしい決まりやルールの捉え方が見えてきます。
自分なりの着物道を自由に愉しみたい貴方こそ
着物の歴史ワールドへどうぞ。
初めてこのサイトに来た人や
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目次
着物の歴史
着物の時代別年表を見る前に
まずは着物とは何なのか?
どんな変化を得て今の形になったのか?
の大まかな着物の背景を紹介します。
ここを踏まえたうえで、歴史をたどった方が理解やすいからです。
現代の着物は、『小袖』という
小さな袖口を持つ衣服が変化してできたものです。
平安時代中期に「大袖」と区別するために生まれた言葉です。
平安時代以前は庶民の衣服でもあった小袖は、もともとは支配階級で高位の人々の下着として使われていたもの。
下着だった小袖がやがて表着になり現代の着物に変化していくという訳です。
そこで、まずは時代と共に変化をしながら
簡単に年表でまとめてみました。
小袖がどのように始まり、時代の流れと共にどのような立ち位置になったのかを見ていきましょう。
※「小袖の歴史は興味ないわ~」という貴方は、本題の画像つき簡単な年表に飛んで下さい。
時代 | 着物(小袖)の歴史 |
---|---|
弥生時代 (紀元前1000年ごろ~350年ごろ) |
男性は一枚の布を体に巻き付けた巻布衣(かんぷい)というもの。 女性は上からかぶり、腰で帯状の紐を結んで着るワンピースタイプの貫頭衣(かんとうい)という袖なしの衣服を着ていました。 |
古墳時代 (350年ごろ~592年) |
ツーピース型の衣服を着るようになり、男性はズボンのようなもの、女性はロングスカートのようなものを下半身にはき上半身には丈の短い衣を着ていました。 |
飛鳥・奈良時代 (592年~794年) |
身分の違いにより明確な衣服の二分化が生まれ、労働階級の庶民は小袖を衣服として、支配階級は手足の隠れる動きにくい衣服を着るようになりました。 養老3年(719)2月3日に元正天皇が「衣服令(えぶくりょう)」を発令して、衿は右を先に合わせる「右衽(うじん)着装法」が定められ、現代の右前で着る衿合わせの決まりに続きます。 |
平安時代 (794年~1185年) |
支配階級の象徴の大袖を何枚も重ね着する十二単。 庶民は貫頭衣を元に変化した筒袖を持った動きやすい小袖を着ていました。 |
鎌倉・室町時代 (1185年~1603年) |
武家の衣服は公的な場では公家同様『大袖』、私的な場では『小袖』を着るようになりました。 庶民も仕事以外は袂付きの小袖を着たと言われています。 公家を除くほとんどの人が日常的に袂が付いた小袖を着るようになりました。 この時代までの衣服には、大袖、筒袖を持った小袖、袂のついた小袖の三種類あります。 2つの小袖に別々の名前をつけたいが、大袖があるいじょうその対である小袖の名をなくすことはできなかったため、袂のついた小袖を「着るもの=着物」と呼ぶようになりました。 次第に、袂のついた小袖が一般的になると「小袖=着物」の認識になっていきました。 |
江戸時代 (1603年~1868年) |
大名の制服とも言える裃(かみしも)が誕生し、奥の世界(女性)では、身分や階層の違いによってそれぞれの美意識や好みを小袖(着物)に反映して楽しんでいました。 町人文化が花咲いた江戸時代は素材(庶民は麻、町人は絹)で小袖(着物)を区別をしていました。 女性の着物は江戸時代中期ごろから、それまで対丈(着た時に身長と一緒の丈で着物が引きずらない)で作られた着物の丈が長くなって行き、帯の下でしごき帯と言うもう一つの帯を使って着物をたくし上げて着るようになりました。 |
明治時代 (1868年~1912年) |
開国による洋服文化が導入されたために、洋服と区別する着物を和服と呼ぶようになる。 明治11年(1878年)には「束帯などの和装は祭服とし、洋装を正装とする」という法律が作られ、大袖は洋服に代わり姿を消すと共に大袖という言葉は次第に使われなくなりました。 旧町人階級を中心とするほとんどの一般庶民女性は、明治時代になっても小袖を受け継ぐ着物を着ていました。 |
大正時代 (1912年~1926年) |
西洋文化が一般庶民にも浸透し、海外の様々な文物が着物の模様に使われ、ヨーロッパのアールデコ・アールヌーボーもこの時代の着物に影響を与えました。 女性の活動が活発になり帯の下で初めからおはしよりを作ってから帯を絞める(現代の着方)ようになりました。 |
昭和時代 (1926年~1989年) |
昭和前半の着物は大正時代の様式を受け継いでいきますが、褄模様という特徴以外は、江戸時代の小袖に直接つながる特徴はほとんど見られなくなりました。 |
以上が大まかな小袖の歴史ですが、次はその時代の衣服のイラストや写真と共にもう少し詳しく見ていきましょう。
弥生時代の日本の衣服
紀元前10世紀頃から、紀元後3世紀中頃までにあたる時代。
239年『魏志倭人伝』等の中国の史書に記されている倭国の王(女王)卑弥呼が魏に使いを送っていた頃です。 男性は一枚の布を体に巻き付けた巻布衣(かんぷい)というもの。 女性は上からかぶり、腰で帯状の紐を結んで着るワンピースタイプの貫頭衣(かんとうい)という袖なしの衣服を着ていました。 やがて体温調節や身体保護の効果を高めるために、両脇を縫い筒状の袖を付けるようになりました。 また、紫草(むらさきぐさ)や藍(あい)などから取った植物染料を使い衣服が作られていました。 |
古墳時代の日本の衣服
350年ごろから700年ごろまでをさし、天皇をはじめ、勢いのある豪族たちがたくさんの古墳をつくった時代です。
593年には聖徳太子が摂政となり、この時代には養蚕(ようさん)も盛んになったようです。 弥生時代の後半から5、600年ごろは埴輪(はにわ)から見られるツーピース型の衣服を着るようになり、男性はズボンのようなもの、女性はロングスカートのようなものを下半身にはき上半身には丈の短い衣服を着ていました。 この時代は、「左衽着装方」(さじんちゃくそうほう)と言って男女共に左前に衿を合わせていました。 |
飛鳥・奈良時代の日本の衣服
700年ごろに入ると中国の唐文化の影響を受けるとともに仏教も伝来した時代です。 中国文化の影響を受けるのは身分の高い支配階級の人だけで、当時中国を支配していた漢民族が着ていたことから『漢服』と呼ばれる大きな袖口を持つ全体的にゆったり仕立てられた衣服を着ていました。 女性の衣服はひざ下までと長く、男性は頭に冠をかぶり、長い袍(ほう)を着て、袴をはいき、男女ともに左前の衿合わせの盤領(あげくび)とい詰め衿式の衣服を着用していました。 奈良時代には礼服(らいふく)、朝服(ちょうふく)、制服(せいふく)を位により服装を三分類する、三公服が制定された時代。 |
衣服の袖と裾(すそ)の大きさや形状は
やがて労働する身分と、しない身分が生まれ
労働する立場の庶民は動きやすい体にフィットした形状の衣服を着るようになります。
労働しない支配階級は大きな袖と裾を持つ形状の衣服を着るようになり
身分により衣服の違いの概念が確立されていったのですね。
平安時代の日本の衣服
794年~1185年、貴族中心の華やかな時代で900年末期に遣唐使が廃止されると大陸との交流が途絶え、日本独自の文化を作り上げる時代に入ってきました。 最初は奈良時代の衣服ですが、やがて身幅・袖幅がゆったりした衣服が好まれるようになり十二単や束帯へと移行していきました。 十二単に代表される重ね着という着装方法は、下着である小袖の上に支配階級の象徴の大袖を何枚も重ね着する着方ですが、元は四季の変化が激しい日本の気候に対応して生まれたものでした。 四季折々の色を取り入れ、季節を衣服で表現する感性は現代にも残され、まさしく日本人ならではの文化はこの時代にはじまったのですね。 |
鎌倉・室町時代の日本の衣服
1185年~1603年ごろ武家の勢力が増した時代。
平安時代末期に『武家』と呼ばれる人々が庶民の中から現れます。 もとは農耕などに携わっていた人の中から武力をもって支配階級である『公家』に奉仕するようになった人たちで、中には公家に準ずる身分までのし上がる武家もいました。 そうした武家の衣服は公的な場では公家同様『大袖』、私的な場では『小袖』を着るようになりましたが、庶民の麻でできた小袖とは違い、武家の小袖は絹から作られた袂付きの小袖でした。 肉体労働以外の仕事で生活する町人は袂を持つ小袖であったと言われ、この頃になると、肉体労働の庶民も仕事以外は袂付きの小袖を着たと言われています。 こうして公家を除くほとんどの人が日常的に袂が付いた小袖を着るようになりました。 |
小袖は構成は形の他に
がありますが、この組み合わせが時代ごとに代わってきます。
時代ごとの身分や階層による好みや感覚や流行りは流動的で、時代を背景に女性達の心理が大きく影響されるからです。
江戸時代の日本の衣服
1603~1868年ごろの時代で封健制度が確立された江戸時代。
男性は「表」(公的な)の世界にいるもの、女性は「奥」(私的な)の世界にいるものとされ、衣服にもそれに従っていました。 身分を象徴する意味を持つ衣服は表の世界(男性)では身分制度の維持のため、自由に選択できませんでした。 特に、生地や技法の選択、模様の形式などは時代の移り変わりにより変化していきました。
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明治時代の日本の衣服
1868年~1912年、政府の産業への取り組みで、効率の良い絹工場ができたおかげで、絹の生産が一気に増えてた時代です。
開国により貿易も発展して、絹糸(生糸)と絹製品の輸出が日本の産業となり、世界的に日本は絹の生産地と認知されるようになりました。 出来上がった生地は染色技術の発達により二次加工され、今までにない友禅文様が可能になり、絹の小紋染めの流行は、江戸時代から引き続き、人気を集めましたが、先染めの糸で文様を織り出した縞や絣も好まれていました。 明治維新によって様々なものが大きく変わりましたが、人々の衣服が一気になわった訳ではありませんでした。 公の立場である男性の衣服に洋装が導入されて、かなりの時間差で女性にも導入されたのです。 まずは皇室や政府の正装が洋服とされ、同時に軍人や駅員・郵便局員など、公的機関に勤める人の制服も同じように洋服に決まりました。 町のあちこちで見かけるこれらの職業の人々が洋服を身につけている姿は、やがて一般庶民の憧れとなっていきます。 明治11年(1878年)には 「束帯などの和装は祭服とし、洋装を正装とする」 という法律が作られました。 ※束帯は平安時代に生まれた皇族及び公家の正装で、現在でも天皇陛下が祭祀の際に着用されています。 有名な鹿鳴館外交はその後の話です。 ※鹿鳴館(ろくめいかん)外交とは、国賓や外国の外交官を接待するために作られた洋風の建物(鹿鳴館)で、西洋のダンスをして文明国として認めてもらおうという外交方針。 それまで高貴な女性は家から外出しないものでしたが、西洋のパーティーでは夫人同伴が当たり前だったので、そのスタイルを取り入れたのですね。 江戸時代末から化学染料が導入され、明治時代には一般的になり江戸時代以来の伝統的な柄を化学染料で染めた着物が当時の主流でした。 海老茶色(紫がかった赤茶色)の股に仕切りのない袴(行灯袴)に革靴、庇(ひさし)髪に大きなリボンをつけた女学生スタイルは、当時の新しい時代を生きる女性の象徴となりました。 |
大正時代の日本の衣服
1912年 – 1926年たった15年しか続かなかった大正時代ですが、衣服は『大正デモクラシー』と共に大きく変化をとげて行きます。
明治末から続く女性の社会進出の動きの中で繰り広げられる洋装への改革運動。 1923年に起きた関東大震災では、身体の動作を妨げる作りである和服を着用していた女性の被害が多かったことから、衣服の洋装化はさらに進んでいきました。 明治維新から始まった西洋文化が一般庶民にも浸透し、海外の様々な文物が着物の模様に使われ、ヨーロッパのアールデコ・アールヌーボーもこの時代の着物に影響を与えました。 その他にも新たに誕生した数々の様式の一例に次のようなものがあります。
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昭和時代の日本の衣服
1926年~1989年の昭和時代は、第二次世界大戦の始まりとともに、国防色の上下服、筒袖の着物にモンペ姿となりました。
終戦を迎え、洋装は進歩し日常生活から切っても切れないものとなりました。 戦争を挟んで現在に至るまで、着物の基本的な形式の一つとして受け継がれていくものになります。 |
以上を見てきたように、着物のもととなる小袖は
近代の着物に至るまでに多様で複雑な展開を見せてきました。
それぞれの階層が異なる様式を好み用いたのは
女性たちの身分や経済力を反映した価値観や美意識に裏づけられてのことであったと云われています。
ですが、そもそも小袖である『着物』という言葉がどのようにしてできあがったのか気になりますね。
次は小袖と着物という言葉の歴史を紹介します。
「小袖」という言葉、「着物」という言葉
桃山時代のポルトガル人宣教師が書き残した記録に、小袖の事を「着るもの」または「きもの」と呼んでいる例がしばしば見られました。
当時の日本人が小袖をそのように呼んだのは、「きもの」すなわち衣服のほとんどが「小袖」であったからといわれています。
江戸時代には、公家も日常生活では小袖を着ることが多くなり、「小袖」=「着物」といわれるようになりました。
ただ、わずかではあっても、儀式には「大袖(広袖ともいう)」を着用していたため、それに対する言葉として「小袖」という言い方も無くなりませんでした。
それが明治時代になり、「大袖・広袖」を着る人がいなくなったため、桃山時代から使われていた「着物」という言葉が唯一伝統的和服を表す言葉となりました。
以上が着物という言葉に統一されるまでの歴史でしたが
「着物=着るもの」という概念は昔から変わらず続いている事がわかりましたね。
こうして着物の歴史をひも解くと、現代にいたるまでの人々の思想や時代ごとの着物の形状などがわかり
今まで以上に着物が面白く感じたのではないでしょうか。
ですが、今回紹介しきれなかった着物の歴史はまだまだあります。
もう少し深く知りたい人の為に歴史を学べる
着物の歴史が学べるおすすめ本
着物を楽しみたいのに、まぎらわしい決まり事やルールに毎回悩まされたりしますよね。
そんな時は歴史を学ぶことで、その決まり事やルールがどのようにして作られたのかが見えてきます。
目先の解決策だけでなく、着物の成り経ちから現代の着物の決まり事やルールのあり方が分かり、
そこで今回は今よりもっと着物を愉しむためにも、着物の歴史が学べるおすすめの本を4冊紹介します。
①きもの文化検定公式教本Ⅰ『きものの基本』/一般社団法人 全日本きもの振興会 編/ 講談社 出版
着物に関する知識や歴史の普及活動をしている (社)全日本きもの振興会が推薦する一冊。
現代の着物文化の指針とも言える (社)全日本きもの振興会の推薦だからこそ安心できて、おすすめです。
着物の歴史だけでなく「これだけは知っておきたい」着物の基本が初心者でもわかりやすく写真付きで学べます。
本体2,000円+税
②きもの文化検定公式教本Ⅱ 『きものの たのしみ』/一般社団法人 全日本きもの振興会 編/ 講談社 出版
きもの文化検定公式教本Ⅰ『きものの基本』に続き、きもの文化検定の公式教本です。
2018年度の最上級である一級の受講者231人中、合格者はわずかに14人の合格率6.9%という恐ろしく難関のきもの文化検定が教本としている本。
難関検定が教科書としておすすめしている本ですが、難しい内容ではなく、いたってわかりやすく見やすい写真付きで解説してあるので初心者でも読みやすい本です。
本体2,000円+税
③図説 着物の歴史 /橋本 澄子 著書/ 河出書房新 出版
「図説 着物の歴史」は着物のもとである「小袖」の形や模様の移り変わりをカラー写真メインで紹介した本です。
着物の歴史を詳しく学ぶことはできませんが、現在まで伝わる「着物」の歴史を物館に収めてある綺麗な模様の着物を堪能するには良い本。
古墳時代から現代までの装いの歴史を、簡単に紹介した章もあり、ざっくり知りたい人におすすめな本です。
本体 6,851円+税
④日本の女性風俗史切畑 健 著書/紫紅社 出版
見開き1ページごとに1つのスタイルを写真付きで紹介してありとても見やすい本です。
古代日本の歴史から順番に着物の形だけではなく化粧や、髪型まで詳細に再現写真で構成されてあり、難しい言葉や、文章を読むのが苦手な人は視覚からだけでも十分に学べるおすすめ本ですね。
本体 1,296円+税
現代では、普段着として着る事がめっきり無くなった着物ですが、その事が着物の美しさや文化的価値を高め、今一度見直されるようになりました。
現代着物から、古着アンティーク着物まで、数多くの種類の着物が混在する中で、着物の着方も正統派から和洋折衷な独創的にアレンジしたコーディネイトまで、様々な形で着物を愉しむ人が増えてきました。
どんな形であれ、着物の歴史を振り返れば
伝統ある日本の民族衣装の着物を自分なりに愉しむためにも、歴史を学ぶことは大切ですね。
少しでも
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